イタリア好きが嵩じてついにはフィレンツェに移住までしてしまったCollezioneイタリア特派員Noriによる、「イタリアよもやま話」。
ちなみに「Bollito Misto」とはいわば「ごった煮」のこと。
自動車、自転車、食事にワインやサッカーはもちろん、たまには真面目な社会的な?お話を勝手気ままにお届けします。
イタリアとは非常に明るく優しい国である。美味しい食べ物、おいしいワイン、美しい街に陽気な人々…。とまあ、ここまでは通り一遍のイタリア評である。もちろんマイナスな点もたくさんある。でも、それを気にしちゃいけない。完全無欠な人間や社会など存在しないし、要はネガティブよりもポジティブが勝ていることこそが重要なのではないだろうか?
だって、世の中、暗くて厳しくて、食べ物のあんまり美味しくない国なんざゴマンとある。昔はネガティブが気になった私も、今じゃすっかりポジティブ評価型に変わった。おそらくイタリアという国と空気がそうさせるのかもしれない。不思議な魅力、それがイタリアなのかもしれない。
さて、そんなイタリアとイタリア人に対する世間一般のイメージとはどんなものだろうか?
勝手気ままで、いい加減…。そのあたりが相場だろう。
が、実はなかなかそうではない。彼らは優しすぎるがゆえの精神面の弱さ以外は、非常に世間体を気にする、日本人よりもはるかに繊細な側面をもっている。
最近はわからないが、よく昔の日本でおかしな事をすると「ご近所様に顔向けできない!」という言葉を聞いたものだが、イタリアではその意識が日本人の比ではないほど強い。だから、洋服選びなど基本的には非常に保守的であり、決められた範疇での遊びを楽しむのを良しとしている。クルマをはじめとするイタリアンデザインの多くは、古い町並みにもよく映える。たとえそれが前衛的なデザインであっても、なぜか違和感なくシックリと溶けこみ、見る側に突飛な刺激を与えない。これも「ご近所(=歴史と伝統)」に対する体裁を気にしている証拠なのかもしれない。専門家ではないので聞き流して欲しいのだが、イタリアンデザインの独特の繊細さは、いい意味でそうした彼らの周囲と溶け込む、伝統を尊重する「優しさ」から生まれているとあえて言わせてもらうことにする。
話をクルマ選びに移そう。彼の国ではファッションも格好をつけるための重要なアイテムでありツールである。
それが「クルマ好き」もしくは「(クルマ)業界人」であるなら、ことさら厳しい目にさらされる。
「ああ、さすが!」という裏付けのあるクルマ選びをしていないと、何かとよろしくないことがおきる。仕事や人間関係を築く上で、何かと格好は気にしたほうがいい。もちろんクルマ本体のうんちくだけでなく、新車情報やレースの話題なども、常におさえておく必要があるのだ。
「ああ、さすが!」という裏付けのあるクルマ選びをしていないと、何かとよろしくないことがおきる。仕事や人間関係を築く上で、何かと格好は気にしたほうがいい。もちろんクルマ本体のうんちくだけでなく、新車情報やレースの話題なども、常におさえておく必要があるのだ。
「今度デビューした◯◯見た?どう思うよ?」
「今年のフェラーリはなんで勝てない?」
こうした会話は、「カフェ」や「アペリティーヴォ(夕食前の軽い飲み)」はもちろんディナーでの必須ネタになるのだ。あの新技術はどうだ? あのデザインはナイ! そして決まって最後は値段の話でため息をつく…。
そんな会話が夜ごと繰り返される。
とにかくクルマ周辺の話題は尽きることを知らない。
とにかくクルマ周辺の話題は尽きることを知らない。
なぜあれほど多くのイタリア人が、老若男女問わずクルマをはじめとした「車輪系」が好きなのか、本当のところはさっぱりわからない。
ただ、彼らイタリア人の価値観の中でも最上位にあるであろう「美しさ」は、とかくこうした「乗り物」に多く存在していることは確かなようだ。
自動車、バイク、自転車、飛行機や船、果ては馬まで、とにかく乗り物大好きで、この手の話題には事欠かない。
その意味で、自動車やバイクなどは身近かつ簡単に「美しさ」という価値を表現のできる乗り物=アイテムであり、精神を開放してくれる貴重なツールなのだろう。
美の国といわれるだけのことはあり、彼らは何であれ「Bellezza(ベッレッツァ=美しさ)」という価値を非常に大切にし、それに対する賛辞を惜しまない。いついかなる時も美しいものには無関心ではいられないというか、とにかく、美しいものを見るとすごく喜んでくれるし、ところかまわず見惚れてくれる。それは、フェラーリでなくても構わない。旧いアルファはもちろんフィアット500でも、愛情にあふれ、丁寧に綺麗に乗られていたりすると、彼らはその「世界」を褒めてくれるのだ。
旧いランチアで高速道路を走っていたとき、130km/h以上で走行しているにもかかわらず、わざわざ隣に並んで窓を開けて大声で賛辞を送られたこともある。片田舎で50年代の自転車で走っていた時も、今にも天に召されそうな爺さんにわざわざ呼び止められ、耳元で「ああ、美しい自転車よ!」なんてささやかれることもあった。
男だけじゃない、井戸端会議のオバサンたちも、かっこいいアルファのジュリアでも通ろうものの、話をやめて「素敵〜!」の連発である。
褒められて気分を害する人はそうはいない。
こんなこと言われたら、満面の笑顔で「ありがとう」を返すしかない。そこには自ずと「優しさ」が満ち溢れる。クルマ好きには「愛でて良し、乗って良し」の天国のようなところだと言える。
イタリアを包む優しさと明るさは、こうした「負の連鎖」ならぬ「富の連鎖」によって生まれているような気がしてならない。
なにやら大げさではあるが、これからクルマやイタリアの話をしていくにあたり、こうした土壌を理解してもらうことは非常に重要だと思う以上に、まず私がただの完全なるイタリアびいきであることをお知らせしたかった。
きっとそれが自己紹介になり、ヨモヤマ話を続けるにあたってのご挨拶になればと思っている次第である。
きっとそれが自己紹介になり、ヨモヤマ話を続けるにあたってのご挨拶になればと思っている次第である。
それではまた次の機会に!
A prestissimo!