イタリア好きが嵩じてついにはフィレンツェに移住までしてしまったCollezioneイタリア特派員Noriによる、「イタリアよもやま話」。
ちなみに「Bollito Misto」とはいわば「ごった煮」のこと。
自動車、自転車、食事にワインやサッカーはもちろん、たまには真面目な社会的な?お話を勝手気ままにお届けします。
「CAR GRAPHIC」の小林彰太郎さんがお亡くなりになった。
多くのメディアの方、特に自動車ジャーナリスト関連のみなさんが思い出やおくやみを述べていらっしゃるが、かくいう私も、もちろん部下と上司という関係ではあるが、若い時分に大変お世話になった関係であった。
「よもやま」に適切かどうかはわからないが、自動車に関わる人間として、今この場をお借りできればと思っている。
私にとってのカーグラ(社内ではCGと呼ぶが、ここはあえて…。)とは、まさに小林さんそのものであり、こんなクルマバカに育ててくれた伯父貴に読まされた1969年7月号こそがまさに原点だった。
そんな縁もあってか、結局は二玄社に就職してしまうのだけれども、それは「小林さんに会いたい」というような、実に浅薄な動機が多くを占めていたことは否定出来ない。
入社後、何のご縁か、憧れの大先生がすぐ隣にいらっしゃるという、夢のような環境に恵まれ、それはそれは大変な高揚感に浸り、友達や先輩に自慢しまくったものだ。
しかし、そういった畏れに近い感覚も程なく消え、今度は図々しくも暇さえあれば何でも質問しまくった。いや、雑談を持ちかけたというのが正しいかもしれない。
「あんた、もういい加減にしなさい!」
by地中海沿岸にお住まいの大先輩ライター(女性)
「おい、老人の友達!」
by元CG副編集長にして、N誌創刊編集長
いろいろ先輩方に怒られつつも、実にいろんな「よもやま話」をしていただいたことが今でも脳裏に浮かぶ。
本当に楽しかった。とても公の場で書けないような話もたくさんしてくださっ
た。実はランチアが大好きで、とっておきのラムダを隠しているんだなんて教えてくださったりもした。
それは間違いなく私にとっての宝物のような時間だった。
世に言われる「永遠の自動車少年」という言葉に偽りはない、彼まさに「本当に自動車を愛した人」だと確信している。
私が二玄社を離れる直前には、もう一人のヒーロー、ポール・フレールさん(故人・2008年没)とお仕事をさせて頂く機会を与えてくださった。
「PF先生の本気の運転を体験しておきなさい…。」
そう言われて走った鈴鹿は、今も鮮明に脳髄に刻み込まれている。
私のような若輩の語る小林さんなど、多くの先輩方の書くところに遠く及ばないことは重々承知している。
しかしながら、自分自身がかつてそうであったように、純粋なるクルマ好き=多くのカーグラ・ファンとして言わせていただきたい。
「アナタのお陰でクルマが好きになりました」と。
今こうして生きているのも、決して大げさでなく小林さんのお陰であった事に疑いはない。
微力ながら、私もクルマの魅力を世に伝えるお手伝いができればと思う次第です。
小林彰太郎さん、本当にありがとうございました。